12/13
自分の人生を、より刺激的でエキサイティングな方向に進める嗅覚が鈍っている。例えば、新しいお店に行って、普段食べないメニューを頼んだり。そうしたことも、ぐっと減ってしまった気がする。
記憶を辿ると、自分の保守的な感覚の強まりはとても意識的なもので、制作等を気持ち穏やかに集中してコツコツ進めたいとまず思っていて、それには体調も大事にしなければならなかったこと(昨年みたいに入院するわけにはいかない)、顔を出す場を限定したりしんどそうなことは少し頻度を下げたりしたことなどがきっかけだと思う。それらの延長に「新しいメニューを食べない」というのがやや入ってきたのだと思う。
なのにもかかわらず、理由は全く違えど、また体調というか体を壊し(実家の片付けを手伝っていたら肩を痛めてしまい、普通にしていても右手が痺れてくるので、楽器を持つのが気持ち的にしんどくなり、進めていた制作を一旦ストップして、もう休むことにした。休んで少し良くなってきている)、あれよあれよと冬には気持ちがベコベコになってしまった。
こう毎年どこかしら体を壊してくると、人生一度なのだと思う気持ちが強くならざるを得ない。なら、もっと私は刺激に生きて良いのでは?ただ、一歩間違えれば破滅的な方向に導かれてしまうぞというのは自分の性質として痛いほどよくわかっている。
20代の頃と同じように何にでも感動できるわけじゃない。嫌味に聞こえていたら申し訳ないですが、そういう意味ではない。ある程度歳を重ね、否応に積まれた経験がある分、自分の足で動かないと、新しい何かには出会えない。モノの見方を変えれば、新しいものに出会えるなんてこともあるかもしれない。違う方向から置かれた花瓶を眺めるにしたって2、3歩は動かないとならないだろう。そのたかが2、3歩がきっと大事なんだろうけど、わかりつつ私はいつも同じデスクに座っている。
そんなこと考えていたら、20代の頃の私の刹那的な感情が押し寄せてきた。あの時は、これから人の家に泊めてもらうにもかかわらず、深夜に生ニンニクを躊躇なくラーメンに入れたんだっけか!
ぱっと思い出したエピソードがこんな程度なのかとビビるものの、私の刹那、快楽、目の前のモノに対する好奇心の欲求なんて、こんなレベルなんだ。破滅しないくらいのいい塩梅に自分に刺激を与えることだってできそうな気がしてきた。
来年は制作年。ソロのレコーディングもあるし、バンドのアルバム制作もある。今年はなるべく取り組むトピックス(ライブや制作)を減らしたし、ぐっと我慢して踏ん張れたと思う。ただ、それでも手帳を見ると、体力的にしんどくて半べそをかきながらアレコレやっていた月もある。一番印象深く覚えているのは、2月下旬か3月あたりで、やらなければいけないタスクが山積しすぎて、どれをどの順番で片付ければいいのか思考が働かなくなり、タスクをカードに書いて、夫にアドバイスをもらいながら、どれをどの順番でやるのか一緒に決めてもらったこともあった。自分で考える力や冷静な判断力も残っておらず、疲労困憊していたので、本当に助かったし、整理したらできそうな気がしたからほっとした。
手帳には今年の抱負を毎年書いていて、今年は「他の人に惑わされずにコツコツとマイペースで」と書かれている。体調を大きく崩さないように、頑張りすぎないけど、それでもポジティブな気持ち、自分は頑張れてるぞと満足できるような気持ちを維持しようと思ったから。
それなのに数ヶ月後には半べそをかいているわけなので、自分の波をコントロールするのって本当に難しい。そもそも、自分だけで波が生まれるわけでもない。他の方からの依頼が集中したら(ありがたいことです)その月が局所的に忙しくなる時もあるし、自分でコントロールできることが全てではない。
そんな色々を考えていたら、自分の体調だって、完全にコントロールできるわけはないし、色々しょうがないことに思えてきた。今は程々に頑張ろうじゃないか、制作に関しても、手を止めていない自分が偉いぞ。
来年の抱負は「破滅しないくらいのいい塩梅に自分に刺激を与える」。いつも食べてるA定食と、食べたことのないB定食があったら、なるべくB定食を選ぶ!新しいことを楽しむ!